2010年10月21日木曜日

「朝日、オリコン、裁判所」ともあろうものが?

――朝日新聞、AERAを経て、2003年に独立したジャーナリストの烏賀陽弘道。音楽や映画業界のみならず、さまざまなジャンルを追い続け、彼の独自の視点と緻密な取材による記事は一般読者から高い評価を得ていた。

【写真:猿回しの仕事がなくなったという話を取材している烏賀陽さん】

 しかしフリーになった3年目に、“書けないジャーナリスト”になってしまった――。多くの“烏賀陽ファン”は、彼の記事を楽しみにしていたのに。

 中学生のころから「文章を書いて、メシが食えたらいいなあ」と思っていました。好きなことといえば音楽を聞くこと、自転車に乗ること、そして文章を書くこと。小説を書いて作家として生きていけるなんて思ってもいませんでした。インターネットどころか携帯電話もない時代だから「会社に就職して文章を書いて働ける仕事」というと新聞記者くらいしか思いつかなかった。今ならブロガー少年にでもなってたんだろうなあ(笑)。

 学校の帰りに本屋に寄って、本多勝一、立花隆、柳田邦夫といったジャーナリストたちの作品を貪り食うように読んでいました。「この世界はこんなに深い奥行きがあるのか」「そんな世界を見て、書ける。ジャーナリストってすごいな」などと思っていました。で、身の程知らずにも「ジャーナリストになりたい」という願うようになった。いま振り返ると、世間知らずなボンボンのたわごとなのですが(笑)。

 大学を卒業するとき、普通に「就職活動」をして朝日新聞社に入社しました。当時の夢は「海外報道」でしたが、最初に配属されたのは三重県の津支局。失礼ながら当時はコンビニもない田舎で、取材活動には英語の「エ」の字もいらない(笑)。ボクは当時23歳。初めてプロとして取材をして記事を書き、がくぜんとしました。読者だったときは「こんな記事、読むに値しない」と思っていた地方版のベタ記事すら書けない。話が聞けない。記事が書けない。満足に写真すら撮れない――。自分は職業人として“無”であると痛感させられましたね。海外報道なんて夢のまた夢です。しばらくはそのことは忘れようと決めた。そして記者としての初歩スキルを習得することに全力投球しました。

●26歳、リクルート事件取材班のメンバーに

 入社3年目、26歳(1989年)のときの話です。愛知県の岡崎支局にいました。なぜか東京本社のリクルート事件取材班のメンバーに選ばれ、3カ月ほど東京で取材することになりました。「リクルートコスモスの未公開株を受けとった」と疑惑を受けた藤波孝生さん(元官房長官。故人)の選挙区は三重県。ボクの初任地が三重県だったから、取材班のメンバーとして呼ばれたんじゃないかな。

 「取材班」というとカッコイイんですが、仕事は藤波さんを24時間尾行?監視すること(笑)。彼が起訴されるまでの約3カ月、記事も書かずにただただ後ろにくっついていただけ。あまり知力のいらない仕事ですが、記者としての視野を少し広げることができたんじゃないかと思います。なぜかというと、それまで三重県の津市と愛知県の岡崎市しか知らなかったボクが、いきなり東京で中央政界を取材することになったから。永田町で国会議員を取材している記者はたくさんいますが、その議員の選挙区を歩いて取材した人は案外少ない。逆に、地方で選挙区を担当している記者は支局にたくさんいますが、その議員が永田町で何をしているのかを知る記者は案外いない。1人の記者が複数の現場を取材して「あ、これは違う」「ここは同じか」と感じることはとても大切だと今でも思います。

 藤波さんが起訴されたことで、ほとんどのメディアは「藤波さんは次の選挙で落選する」と予測していました。しかしボクは「絶対に当選する」と確信していた。なぜなら、三重県の人をよく知っていたから。人柄が穏やかで、長期の人間関係を大切する三重県で「汚職議員だから」と藤波さんに背を向ける人はほとんどいなかった。彼は自民党は離党しましたが、1990年に行われた総選挙で当選します。東京の大手メディアは「不思議だ」「信じられない」と言っていましたが、東京と三重の両方を取材していたボクにとっては、むしろ当たり前の結果でした。

●会社はいつでも辞められる理論

 名古屋本社の社会部(入社5年目、28歳)在籍中に「新聞記事を書くのは、もういいな」という感じがし始めました。満腹感っていう感じかな。新聞記事というのは、基本的に誰が書いても同じようなもの。誰が書いても同じになるようにテーマの選び方や文体を管理している。誰がやっても最終製品が同じになるような組織運営がされている。「もっと自分でないと書けない記事はないだろうか」「ボクだからこそこの記事が存在した」と模索し始めました。しかし朝日新聞社はそんなことを記者に求めていない。それが分かってきました。

 同業他社への転職やフリーランスになることも考えました。精神的にも肉体的にも疲れていたので「母校の大学院にでも行こう」と思っていたら、いきなり上司が雑誌『AERA』へ行けと言い出した。「まあ全国紙に就職したんだし、一度は東京で働かないと損だろう」とちょっと退社を先延ばしにした。「『AERA』で働いて、ちょっと様子を見るか。つまらなかったら、その時点で会社を辞めればいいや」と思っていました。「会社はいつでも辞められる理論」ですね(笑)。

 アエラ編集部に配属されると、驚いたことに「何を取材してもいい」と言われました。好きなことを取材をさせてもらって、好きなように書かせてもらえる。そして実際に「烏賀陽がいなければこの記事は存在しなかった」という記事を書かせてくれたんです。新聞で書いていたときには「これは面白いけど書けないネタ」の連続でしたが、アエラ編集部に来て、その「書けない領域」が消えました。例えば三重県警を担当したいたときには、火事だ汚職だ爆発だと警察記事ばかり書いていました。それは自分が選んだ仕事ではなくて、仕事がボクを選んだだけ。「オレは音楽のことを書けば、面白い記事を書けるのに」という自信があっても、三重県に音楽のネタはなかった(笑)。

 ところが東京に来てみると、メジャー、インディーズ問わずレコード会社は山のようにあるし、コンサートもたくさんある。日本のミュージシャンだけではなく、外国からもたくさんやって来る。ネタがたくさんあるので毎日「アレも書きます、コレも書きます」といった感じ(笑)。

 「烏賀陽ではないと書けない記事」といっても、案外簡単なんです。例えば「新宿や上野でドラッグが簡単に買える」ということを聞いたので、潜入取材を試みました。散髪をせずに、無精ヒゲをはやして、汚い服装で、実際に売人に会ってドラッグを買いに行きました。するとマリファナが簡単に買えてしまう。いや、買う寸前で止めましたけど(笑)。覚せい剤、コカイン、ヘロイン、LSD……まるで「ドラッグ天国」のように買えるわけですよ。ボクがかつていたニューヨークよりも東京の方が、ドラッグの種類が多く、簡単に手に入る――というルポを書きました。この記事の反響はとても大きくて、海外メディアからもボクのところに取材に来ました。

 東京の繁華街の真ん中でドラッグが堂々と売られていることを、なぜ大手企業メディアは報道しないのか。答えは簡単で、そういうネタを担当する新聞記者は、それがネタだという発想がもうない。彼らはかつてのボクのように、「警察担当」として上野なり新宿警察署のクラブに詰めている。売人が逮捕され、警察が発表すれば、彼らは「警察のアクション」として書くかもしれない。しかし記者クラブから数百メートルしか離れていないとこでドラッグが買えるという「警察は動かないが、日常的な現実として存在する事実」は、彼らには記事のネタではない。そういう取材手法があることを記者の動作として認識してないんです。

 ボクがしたことは「政府の秘密文書を入手する」といった難易度の高い作業ではなく、変装して公園に行っただけ。これは発想の問題です。「人と違う発想をするかどうか」――たったそれだけの違いが、記事の違いになる。そんな簡単なことですら、新聞記者はもうできない。発想がオリジナルな記者はいるかもしれませんが、少なくとも紙面には表れない。毎日、いつかどこかで見た記事が紙面を埋め、読者はうんざりする。記者にも読者にも不幸なことです。

●35?36歳のとき、念願の海外勤務

 35?36歳にかけては、アエラの駐在記者としてニューヨークに派遣されていました。学生のころに「新聞記者で海外勤務、署名記事を書き送る」という夢を見ていましたのですから、図らずも週刊誌記者でそれが実現したわけです。

 ニューヨークでも、さまざまなテーマを取材しました。1998年の着任早々、円ドル相場で戦後最大のドル下落が起きたので、記事を書きました。それまで国際通貨のことなど書いたことがないのに、着任早々いきなり英語で取材をして、ベテラン金融記者のような顔をして書くわけです。なんとも罪深いことですが(笑)。もちろん読者はそんな言い訳は認めてくれません。ベテランだろうとルーキーだろうと読者には関係がない。また東京から「マイケルジョーダンが引退するから書け」と命令されれば、取材して書いたりもしました。

 もちろん大半は自分で企画した記事でした。例えば、当時はITベンチャーブームだったので、なぜ米国にはたくさんのITビジネスが生まれ、日本には育たないのか、という内容の記事。シリコンバレーやシアトルを訪ねてベンチャー業界をインタビューして回りました。アマゾンやスターバックスの社長も会いましたよ。またベンチャー企業に資金を提供するベンチャーキャピタルも取材しました。当時の日本でベンチャーキャピタルはまだ黎明期だったので、彼らがどのように資金を集め、どのようにして投資しているのか、内容を書きました。

 「この記事はボクでないと書けない。そんな記事を書こう」「そうでないとボクが書く意味がない。他の誰かがやればいい」と自分に課していた。読者からは「こんな記事は、ほかで読んだことがない」といった手紙やメールをたくさんもらった。そんな瞬間がいちばん記者冥利に尽きましたね。

●アエラという氷山が分離した

 新聞記者の時代とは違って、アエラ在籍中は「自分がやりたいこと(ほぼイコール記号)仕事」という関係になっていました。もちろん「なんでオレがこんな取材をせにゃあかんのじゃ」という記事も必死で取材しましたよ。「相撲協会の内紛」とかね(笑)。会社からサラリーをもらっているんだからそれは当然。とはいえ「自分が選ぶ仕事」>「会社がボクにやらせる仕事」だったから、サラリーマンとしては幸せでした。

 ただ30代後半になって、これ以上は前に進めないという壁に突き当たりました。それは「取材記者からデスクワークの管理職にならなければいけない」ということ。現場の記者になりたくてこの仕事を選んだのに、管理職になると1日中会社に座って他人の原稿をチェックしたり、勤務時間の計算をしなければいけない。やっと自分のやりたい仕事ができるスキルが身に付いたと思ったのに「ええっ、もう管理職?」「もう一丁上がり?」ですよ。

 またアエラの編集方針もずいぶん変わりました。雑誌は生き物なので、編集部にいる記者や編集者によって自然にカラーができるものです。が、悪くするとそれが固まってしまう。アエラでは「働く30歳代女性」を掲載したら、それがやたらと売れた。売れるとまたやりたくなる。で、似たようなテーマばかり反復する。最初は「東京23区でもっとも子育てにやさしいのはどこか」とか、ちゃんと取材していました。しかし「収納カリスマ主婦に聞くウルトラ収納術」みたいな“まんま主婦雑誌やんけ記事”が増えてきた(笑)。雑誌のページは一定ですから、女性向けの記事が増えれば他は圧迫される。ネタが通らなくなる。自分が取材した記事が掲載されない。もう1999年ごろの話ですけどね。南極にいるボクはそのままだけど、アエラという氷山が分離して、どんどん遠くなっていくような感じでしたね(笑)。

●40歳で、朝日新聞を退職

 アエラ編集部には28歳から38歳までの10年間いました。そこを出るとき、もう新聞記者に戻るという気持ちはなかったですね。週刊誌記者として充実した取材を10年続けて、いかに新聞が無味乾燥でオリジナリティがないということが分かったから。記者クラブはもちろん関係があるのですが、それ以上に「ボクでなければ書けない」ネタを載せる仕組みが社内にない。そんな時間は与えられないし、上司も評価しない。明日になれば発表される警察の特ダネだったら、ボクより上手な人はたくさんいる。そんな世界に戻るのは自分の人生にとってロスだと思っていました。

 アエラ編集部を離れ、次は『ぱそ』という初心者向けのPC雑誌で、編集者の仕事に携わることになりました。会社の命令です。編集者という仕事も初めて、PC雑誌も初めて15年間積み上げてきた記者としての経験や人脈は、まったく無用の長物……。何の役にも立ちませんでしたね。

 会社員としての人生を送るにあたって「自分のやりたいこと」と「会社がボクにやらせたいこと」――この比率が50対50なら、幸福だと考えることにしていました。しかし、PC雑誌の編集者になった時点でこの「臨界点」を超えてしまった。つまり自分のやりたいことよりも、会社がボクにやらせたいことの比率が大きく上回り、針が振り切れてとまった。

 そして40歳のときに、朝日新聞社を辞めました。会社を辞めることに対する不安ですか? 不安どころか、安心材料なんてひとつもない(笑)。朝日新聞社の給与は手取りで毎月40万以上あったのが、それがゼロなんだから。ボクは人一倍臆病なんですよ(笑)。いつも「本当にフリーランスでやっていけるのか?」と自問自答するんですが、結論はいつも「いや、食っていけるはずがないぞ」になってしまう(笑)。

 会社を辞めてるとき「自分は何をするべきなのか」はよく分かりませんでした。しかし「何をすべきではないか」は分かっていた。それは「朝日新聞社に残っていること」。あのまま会社に居続けては、ボクは間違いなく職業人としてダメになっていたでしょうね。

 とりあえず書籍の依頼が2?3あったので、本を書くことに自分の力を注いでいこうと決めました。「本を出して、反応を見てみよう。今から5年経ってダメだったら、まあまたそのときに考えりゃいいや」と思っていました。

●43歳、オリコンから訴えられる

―― 2003年、烏賀陽は朝日新聞社を辞めた。しかし3年後、ある「事件」に巻き込まれることとなる。月刊誌『サイゾー』(2006年4月号)に掲載された「ジャニーズはVIP待遇!? オリコンとジャニーズの密月関係」という記事で、烏賀陽はサイゾー編集部から電話取材を受けた。しかしその掲載された烏賀陽名義の「コメント」に対し、オリコンは事実無根の名誉毀損として出版社やライターを訴えずに、烏賀陽のみを提訴したのだ。

 「訴状」が届いて開封した瞬間、すべてが吹き飛んでしまいましたね。その日から違う人生に入ってしまう、ようなものです。裁判対策で仕事ができない。収入が減って、徐々に追い詰められていくんですよ。2007年から2008年の年収は120万円。「もしかしたら自分のフリーランスのキャリアが終わってしまうかもしれない」という恐怖と戦っていました。

 オリコンは「烏賀陽は長年にわたって虚偽に満ちた誹謗中傷を繰り広げた」と主張していました。屈服すれば、オリコンの言い分を認めるようなもの。ボクが20年間積み上げてきた職業人生がそこで終わってしまう。だから崖っぷちに立たされようとも、逃げるわけにはいかなかった。

 オリコンのように嫌がらせ目的だろうと、自分たちにとって都合の悪い情報が流れるのを防ぐ目的だろうと、民事訴訟は誰にでも起こせます。そして訴えられた側は、弁護士を雇って対抗しなければならない。弁護士費用は着手金だけでも100万ほどかかる。もしそれが支払えなかったら、法廷で負けてしまう。紙切れ1枚を裁判所に持っていけば、誰でも裁判を起こせる。そんな簡単な手続きで、相手にさまざまな苦痛を与えることができる日本の民事訴訟は、とても危険なシステムになってしまったのではないでしょうか。

 裁判で争っているとき、多くの人は「そんなバカな訴訟はすぐに裁判所が棄却するでしょう」と言いました。ボクも「裁判所は弱い者の権利を守る砦」と思っていた。が、甘かったですね。東京地裁は「烏賀陽に名誉毀損の責任がある」という判決を下しました。もしメディアの取材に応じたことで、名誉毀損の責任を負わされれば、誰もマスメディアを通して発言なんかしない。東京地裁の判決は「普通の市民が意見を発言する権利」を奪ったようなものでした。

――オリコンは2009年7月、東京高裁に「請求放棄」を表明した。請求放棄とは「自分の訴えに理由がないこと」を認める手続き。つまりオリコンは一方的に敗北を宣言し、勝手に自滅した。

 33カ月間にも渡ってボクを苦しめたこの裁判は、オリコンの“完敗”で終わった。「こんなみっともない負け方をするくらいなら、何のために提訴したのか?」と考えると、ものすごく腹が立ちますね。

 しかしこの裁判を経験し、いろいろなことを学びました。都合の悪い意見や批判を封じるための嫌がらせ提訴のことを、欧米では「SLAPP」(strategic LAWSUIT against public participation)と言います。米国(28州?地域)ではその被害を防ぐ法律があります。しかし日本には米国のような反SLAPP法が存在しません。「嫌がらせ提訴をこのまま野放し状態にしておいていいのか」――ボクはそのことに注目していて、近い将来、SLAPPの現状や問題などを本にまとめるつもりです。「インターネットと言論の自由」も次の本のテーマとして待っています。

 オリコン裁判で失ったものはたくさんあるのですが、その一方で得たものもあります。その1つは「烏賀陽さん、何か力になりますよ」「烏賀陽さん、無償でいいから動きます」という友人がたくさんいてくれたこと。カンパを集めてくれたり、裁判に関するWebサイトを立ち上げてくれたり。「なぜこんなにたくさんの人が助けてくれるのかな」とよく考えました。自分はそんなに立派な人間じゃない。きっとこれまで地道に仕事をしてきたからだろう……それくらいしか思いつきませんでした。

 思い返せば、朝日新聞社を辞めたときもそうでした。「会社、辞めたんだって? 生活大変だろうから、ちょっと手伝ってくれない?」と声をかけてくれる人がたくさんいました。ボクは敵をつくりたいとは決して思いませんが、この仕事をしていると人を批判することは避けられない。なので必然的に恨みを買ってしまうんです。でも同時に、助けてくれる人もできる。ボクは人をだましたり、利用したり、裏切ったりは絶対にしなかった。ひょっとしたらそのおかげで、土壇場に追い込まれようとも、孤独にならなかったのかもしれません。(本文?敬称略)【土肥義則,Business Media 誠】


【関連記事】
批判されても、批判されても……貧困ビジネスに立ち向かう理由
報道とは何か? 事件と震災の取材で分かったこと――NHK解説委員?鎌田靖
なぜ無酸素で8000メートル峰を登るのか――登山家?小西浩文
海外メディアは日本に定着するのだろうか? WSジャーナル?小野由美子編集長
伝説の“呼び屋”は何を交渉してきたのか――ドクターKこと、北谷賢司


引用元:Reign of Revolution 情報局

2010年10月16日土曜日

東京外為市場?15時=ドル93円前半、売買交錯し小動き

       ドル/円   ユーロ/ドル  ユーロ/円
午後3時現在 93.28/32  1.3336/37  124.43/45
正午現在   93.27/31  1.3325/27  124.29/33
午前9時現在 93.18/23  1.3329/34  124.24/25
NY17時現在 93.26/31  1.3334/38  124.55/60
 [東京 8日 ロイター] 午後3時のドル/円は、ニューヨーク市場の午後5時時点とほぼ変わらずの93円前半。東京市場は売買が交錯、主要通貨は値動きが鈍った。円相場では調整色の出てきたクロス円の動向が焦点とする声が出ている。
 ドル/円は93円前半から半ばの狭いレンジ内でもみあいとなった。前日海外の取引では、米金利の急速な低下を受けてドル売りが先行したが、東京市場では下値に海外勢を中心に買い戻しが入り、下げが限られた。ただ、上値では引き続きファンド勢などの売りが続き、値動きは一進一退となった。
 市場では、クロス円の動向に関心を示す声が出ている。テクニカル面に着目した買い仕掛けを受けて、今週に入って豪ドル/円が1年半ぶり高値をつけるなどクロス円は軒並み上昇したが、その後は反動とみられる調整売りが先行している。「クロス円の上昇がこのまま限られ、もう一段の下げに転じるようなら、円には上昇圧力がかかりやすくなる」(外銀)という。
 <FRBはハト派寄りの情報発信で金利上昇をけん制>
   バーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長は7日、米経済は依然として逆風に直面していると指摘、住宅セクターはまだ回復しておらず、労働市場も低迷しているとし、利上げ開始を急がない姿勢を示唆した。市場では「このところのFRBの情報発信はハト派に片寄っている。長期金利が4%をつけるような金利の上昇をけん制する意図があるのだろう」(みずほコーポレート銀行マーケット?アナリスト、唐鎌大輔氏)との声が上がっている。
 唐鎌氏は、6日に発表された3月16日分のFOMC議事録にすでにそうした意向がうかがわれると指摘。「議事録を受けて10年債入札は好調になると予想していたが、想定通りだ。これがドル/円の売りにもつながっている」(唐鎌氏)としている。210億ドルの新発10年債(リオープン=銘柄統合)の応札倍率は3.72倍と好調で、10年債利回りは6日の3.95%付近から3.86%付近まで低下した。
 <人民元切り上げの行方にらみ、米財務長官?中国副首相会談に注目>  
 ガイトナー米財務長官はきょう北京で王岐山中国副首相と会談する。中国側から人民元の上昇再開に向けた地ならしともとれる発言が相次いでいるなかで、急きょ、中国への訪問が決まった。
 会談はメディアに非公開で行われるが「人民元切り上げに向けた内容がもれ伝わってくるようならドル/円の売り材料になりそうだ」(国内金融機関)との声が上がっている。JPモルガン?チェース銀行債券為替調査部長、佐々木融氏は「米為替報告書の発表延期から人民元切り上げに向けた動きが煮詰まってきており、秒読み段階に入ってきた。ドル/円のポジションがロングに傾いており、もし切り上げの兆し出るようなら巻き戻しを誘発しそうだ」としている。
 市場で「人民元の上昇を押さえるための人民元売り/ドル買い介入は金融緩和効果を持つため、中国の為替政策は金融政策とワンセットで考える必要がある」(邦銀)との声が出るなか、中国人民銀行(中央銀行)は8日、150億元(22億ドル)の3年物手形入札を2.75%の利回りで実施した。これは市場予想の約2.7%を若干上回る水準となる。
 モルガン?チェースは8日付リポートで「手形入札の期間延長(現在は3カ月物と1年物の入札が行われている)は、金融政策正常化に向けた人民銀行のスタンスがより積極的になっていることを示唆するものであり、人民銀行が今月中にも利上げに踏み切るとの見方をサポートする」としている。
 (ロイター 基太村真司記者)

【関連記事】
? ドル93円後半、ユーロ/円の売りが圧迫=東京市場
? ドル94円前半、豪中銀の政策金利発表に注目=東京市場
? ドル/円下落、7カ月ぶり高値から利益確定売り=NY市場
? 東京マーケット?サマリー?最終(7日)
? 〔外為マーケットアイ〕ドル93円後半で小幅下落、白川日銀総裁は景気2番底懸念かなり薄らいだと表明

引用元:エターナルカオスNEO(NEO) 情報局

2010年10月12日火曜日

「夢世界」東京モード学園とコラボしたデザイン

「夢世界」×「東京モード学園」のコラボイベント!
『2nd Anniversary FASHION DESINGN CONTEST』
結果発表のお知らせ


株式会社シーアンドシーメディアが日本国内においてサービス運営をいたしておりますファンタジーMMORPG「夢世界-武林外伝-」(以下、夢世界)におきまして3月に実施いたしました「夢世界」と「東京モード学園」のコラボ企画『2nd Anniversary FASHION DESINGN CONTEST』の結果発表をお知らせいたします。

夢世界におきまして、3月1日?3月8日の期間に実施いたしました「夢世界」と「東京モード学園」のコラボ企画『2nd Anniversary FASHION DESINGN CONTEST』の受賞作品が決定いたしました。

☆最優秀賞
作品名:カンフーウサギ
デザイナー:崔寶美

☆優秀賞(2作品)
作品名:ラブリーペット
デザイナー:永田ひかり
作品名:仕掛
デザイナー:藤村麻由

冒険者の皆さんからの投票で、今回見事最優秀作品に選ばれた作品はドリーム大陸にて実装いたします。
実装時期が決定次第、公式サイトにてお知らせいたしますのでお楽しみにお待ちください!

■ 夢世界×東京モード学園『2nd Anniversary FASHION DESINGN CONTEST』特設ページ
? http://yume-sekai.jp/news/2010/03/2nd_anniversary_fashion_desing.php


『2nd Anniversary FASHION DESINGN CONTEST』結果発表

■最優秀賞


■作品名:
カンフーウサギ

■デザイナー:
崔寶美

■受賞者コメント:
まず、投票してくれた皆さんありがとうございました。
私はもともとオンラインゲームが大好きだったので、夢世界のコンテストがあるって聞いた時からワクワクしてました。
説明会を聞いたその日からアイデアスケッチをして、どれも良い作品だったので、結局多数の作品を出しちゃいました。
一枚でもいいから選ばれて大好きなゲームの会社を見学したり、会社の人たちと話がしてみたいと思ってたので予選を通過したたけで嬉しかったのにグランプリまで取れて本当に夢のようです。
自分がデザインした服が、夢世界の中で実体化できる…そしていろんな方が着て動く、考えるだけで幸せすぎて、お腹いっぱいです。
私のデザインした洋服を着てくれて、幸せな気分でゲームをしていただければいいなと思います。
こんなすばらしい経験ができる機会をくれた夢世界の皆さんとここまで支えてくれた学校の先生や友達、そして家族にもう一回ありがとうございます。

■投票者コメント:
1回みただけで忘れないくらいすごいインパクト!
強そうでもあり、可愛くもあるところが気に入りました。
後ろのしっぽが決め手でした。
色遣いもかゎいいし、雰囲気が好き(*′?`)バックスタイルのかわいさにヤラれましたっ☆


■優秀賞


■作品名:
ラブリーペット

■デザイナー:
永田ひかり

■受賞者コメント:
今回、とても良い機会をいただき、そして優秀賞に選んでもらえて大変嬉しく思っております。
ありがとうございました。
いつものファッションコンテストとは少し違うコンテストだったので、とても楽しく取り組ませていただきました。
今後は、いよいよ就職活動が始まるので、今回夢世界に関われたことも良い経験だと思い自信に繋げ、意識を常に高く持ってデザイナーになるという夢に向かって頑張って前進していきたいと思います。


■作品名:
仕掛

■デザイナー:
藤村麻由

■受賞者コメント:
投票してくださった方、本当にありがとうございました。
今回応募したものは枚数を描くのもあって物凄く完成度が低く、本当に申し訳なかったのですが目にとめていただけて嬉しく思います(●^ー^●)
私はモード学園でお洋服の勉強をしながら学外で絵を描いたり、拙いながらも小説(?)を書いたりしています?
興味を持っていただけたなら、色々な人とお話したり一緒にものを創ってみたいと思っていますのでよろしくお願いしますm(__)m

「夢世界」公式サイト


引用元:ウルティマオンライン(Ultima Online) 情報局

2010年10月6日水曜日

「ローズオンライン」アーティスト第一弾「MOON-香奈






 フェイスが運営するMMORPG「ローズオンライン エボリューション」で,11月20日の定期メンテナンス後より新しいマイレージアイテム「kanaファッションBOX」が販売される。
aion rmt


 これは,先日発表された(関連記事)アーティスト応援プロジェクト「Artist+AID」第一弾として発売されるもので,“MOON-香奈-”さんとのコラボレーションだ。発売されるアイテムは,うさぎをモチーフにした装備アイテムで,「kanaファッションBOX」を購入すると,
五つの装備アイテムの中からランダムで一つが入手できる。このほかマイレージアイテムには,大規模対人戦で活躍しそうなアイテムが当たる,「ユニオン戦BOX(弐)」の販売が開始される。



 また同日(11月20日),クリスマスイベントが開始される。下記のリリースにある手順どおりにNPCと会話を進めるとクリスマスプレゼントが貰えるので,ぜひ参加してみよう。



#### 以下,リリースより ####



(1)MOON-香奈-アイテム

■概要

マイレージアイテム(※)に、先日発表したアーティスト応援プロジェクト「Artist+AID」第一弾企画として、MOON-香奈-さんとのコラボレーションアイテムを販売します。彼女がデザインした、うさぎをモチーフにしたかわいいアイテムが当たります。



※マイレージアイテム???マイレージポイントで交換できるゲームアイテムです。

※マイレージポイント???料金オプション購入額の5%が同ポイントとして還元されるほか、マイレージチケット(500円?1000円?3000円?10000円)の購入でも手に入れることができます。



■アイテム名?価格

『kanaファッションBOX』50pt



■アイテム詳細(以下の賞品からランダムで1個当たります。)

?月の兎の帽子(頭装備)

?すずらんの眼帯(顔装備)

?すずらんのリュック(背中装備)

?Kanaの花束(槍)

?Kanaヘアー(頭装備)










(2)ユニオン戦BOX(弐)

■概要

マイレージアイテムに、大規模対人戦で大活躍できる便利なアイテムが登場です。



■アイテム名?価格

『ユニオン戦BOX(弐)』30pt



■アイテム詳細(以下の賞品からランダムで1個当たります。)

?あぶない竹槍(槍)

?ダメージ強化(特攻) 1?10個

?HP,MP拡張(特攻) 1?15個

?赤い神豆 1?100個

?青い神豆 1?100個

※「あぶない竹槍(槍)」以外の当選個数はランダムです。










(3)クリスマスイベント

■概要

ローズでは今年も恒例のクリスマスイベントを開催します。下記手順に従って進めるとサンタさんから素敵なプレゼントが貰えるので、皆様も奮ってご参加下さい。



■イベント手順

1)ザント村のNPCジュディーの依頼を受けて、サンタ惑星に行く。

2)サンタさんの依頼を受けて、ジュディーへのプレゼントをもらう。

3)ジュディーにプレゼントを届けると、彼女からお礼がもらえます。

4)ジュディーにプレゼントを届けた後サンタさんに話しかけると、サンタさんからのプレゼントが、もらえます。

※ジュディーからのお礼プレゼントは、12月25日(火)定期メンテナンス後に開封可能です。それ以前にアイテムを使用しても、効果は得られませんのでご注意下さい。

※プレゼントは、インベントリーの消費アイテムTabに入ります。 こちらのTabに空きがある状態でイベントを進行してください。

※ジュディーからのお礼プレゼントは、1キャラクターにつき1個のみ獲得可能です。



■サンタさんからのプレゼントアイテム

『X’mas ジャンボ宝箱2007』

なにが出るかは、手に入れてからのお楽しみ!



□マイレージアイテム販売?クリスマスイベント開始日時

2007年11月20日(火) 定期メンテナンス後















□URL

[マイレージアイテム販売]

http://www.roseon.jp/pr/0711item/

[クリスマスイベント]

http://www.roseon.jp/pr/0711/update.asp




########

引用元:アイオン-ナビ AION-NAVI - AION,アイオンの掲示板,BBSです,ユニーク 装備の情報,WIKI 攻略,RMT コンビニなどサービスを提供します。